水呑・鞆
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水呑・鞆地図
 
芦田川
 
芦田川
 
芦田川
 
芦田川
鍛冶屋川
芦田川
 
芦田川
 
古山田川
 
渡船場前
 
 
13-01
水呑洗谷
水呑洗谷
 水呑大橋西詰、梅の木坂を越して志田原。熊野へ抜ける急な坂越えは、今は車で数分の距離である。
 昔は小半刻かかって越したであろう急な坂道、芦田川沿いの道との辻であった。
 鶏の字の旁(つくり)は鳥ではなく佳であるが、活字が無い。
 常夜燈は百年程であるが、そばの石塔は文化九年(1812)と古い。
13-02
水
水
文化十五年頃、江戸末期百姓町民の生活はようやく潤いだした。海を渡って金毘羅詣でが盛んになり金毘羅講が備中・備後の各地にできた。
 金毘羅に対する地元の信仰は妙見さん。金毘羅常夜燈の向こうをはって草戸・水呑みでは妙見常夜燈がたくさん見られる。
13-03
水
水
 半坂は瀬戸町地頭分への最短みち。松永へは此の道に限る。だが車は最近まで通らなかった。
 「右やまださんな道 ひだりみのみともつ道」のみちしるべあり。
「夏は冷し冬温し喉の渇きに妙」と案内の石碑がある「玉ノ井」の井戸はいまいずこ。

 松の木も古いが、丸い笠の常夜燈・地神さんと道しるべは、昔の辻の様子をほうふつさせる。今でものどかな一幅の絵である。
13-04
水
水
 芦田川改修によってできた堤防から、中村・鍛冶屋に至る平野は昭和の新涯とでも云おうか。
 川土手がなかった明治のころ、此の辺りは舟着き場であったらしい。その名残の澪は、いま排水路または排水路跡として残っている。
 水呑には文化十二年、五十二の舟。大正十年には西洋型帆船十一、小船百八十九。計二百艘あった。(沼隈郡誌)

 波おだやかな瀬戸内海の、福山の西港であった水呑・草土は、特別に防波堤などの設備が要らない良港であったろうが、芦田川の流し出す厖大な土砂量によって埋まってしまった。
13-05
水
水
 鍛冶屋町内会館前、鍛冶谷川河口。
妙見大菩薩は水呑一帯の水難防除の守り神で、日蓮大菩薩は鐵の神様。

 鍛冶屋と言う地名が示すとおり、此のころ水呑は芦田川の水運で運ばれた鐵の加工場所だった。
 鍛冶屋町内会館は、元の水呑小学校を移転してきたものと聞く。

 鍛冶屋川の河口にたつと、芦田川河口堰ができる以前の潮入りが窺がえる。
13-06
水
水
 武部神社の石段の上り口にあるが、神社の燈籠ではない。妙見大菩薩は水呑の住民全体の守り神である。
 この常夜燈は芦田川河口の水難を防除し、併せて海上平穏・豊漁を祈願するものである。

 水呑に在住の宇田寛さんは、子供のときから竹が端のこの辺りが好きであった。武部神社へ寄進の札があったので聞いたら「家の周りで遊ぶより、ここで遊んでいたほうが多かった」とのこと。今でもこの常夜燈前から白波を立てて、好きな魚釣りに出掛けられる。
13-07
水
水
     =風呂ヶ鼻の風呂神社由来=
 寛永二十年水野勝成が疝をやみ東西の崖下に唐風呂を設けて治療した。今も当時の柱穴・梁穴などが風浪にたえて残り、黒く焦げた崖膚とともに往時を追懐させる
   (昭和四十六年高島公民館運営委員会)

 いま、勝成の御船入港跡が高島幼稚園になっている。
13-08
水
水
 防波堤の上に端然と座している常夜燈は誰の目にも止まります。附近で投げ釣りをしている太公望たちには、何世代も前から此の常夜燈はここに鎮座しているものとしか思えないでしょう。
 じつは、この常夜燈は景勝館の先々代んぽご主人が裏手に崩れていたものを復元して、この海辺に据えられたものです。

 それでは何故景勝館の裏手にあったのかといえば、もともとそこが海辺で、常夜燈は立派に燈台の役目を果たしていたからです。
 常夜燈のもとの位置を探ると、昔の地形がわかります。約百三十年前の鞆の地は、想像もつかないほど山寄せにあったのです。
13-09
水
水
 宮城道雄の筝曲『春の海』発想の名勝地鞆の浦で迎える初日の出は絶景です。
 この鞆の見どころの一つが、往時の賑わいをみせる雁木(がんぎ)の残る鞆港です。港の中央にある高さ七・五米のこの常夜燈は、高さや火袋の寸法などはほぼ元のままですが、もともと鞆の豪商大阪屋が寄進したときは「要害燈籠」と呼ばれていましたので、要害山のふもとにあったものでしょう。

 安政年間、港の修復の時にこの場所に再建されたものと考えられます。
 百三十年も経って、この常夜燈も土台が崩れて、傾いていたものでしたが、所有者不明で手が付けられませんでしたが、平成元年に海島博があり、付近の修景の必要が生じましたので、この常夜燈も修復されました。         
                     (完)
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