高屋川
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高屋川地図
山野川
高屋川
清水川
高屋川
落石川
高屋川
 
高屋川
 
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高屋川
 
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高屋川
 
高屋川
 
高屋川
07-01
山野下市
山野下市
 福山市の最北端 山紫水明の山野峡および名瀑竜頭の滝から流れ下る山野川は 小田川の本流である
 ここに掲げるのには理由がある 一つには福山市に属するので 岡山県の石造物から仲間外れにされること もう一つの理由は 福山の開祖水野勝成によって井原から東流するようになった山野の水は 今でも伏流水となって高屋川に流入している事実があるから
 山野の交通の要衝である下市は東は川沿いに芳井へ南は川を渡って七曲がりを加茂へ下り 福山へ
 大橋のなかった頃の渡し舟の安全を願えばこその金毘羅常夜燈
07-02
中條大倉
中條大倉
 福山ゴルフ場の東 昔はかなりの集落があった このころは江戸に黒船が来たり コレラで三万人も斃れたり まったく油断のならない世情であった
 せめて金毘羅さん この界隈だけは安全に守って下さい
 三寶荒神は水の神様 むかし田植えが終わると苗束を集めて柿の葉をのせ それに寿司らしきものを供えて「さんぽうさん」に祈りを捧げた 食い意地の張った男の子は「三寶さん」はお寿司のことかと思っていた
07-03
後月橋
後月橋
 道路を隔てて 立派な日輪大師堂があるので「おでゃっさん」の燈籠と見間違うが 実はこれは川のための常夜燈
 落石川はここで天井川となり 洪水ともなれば市街地があぶない 昭和12年7月 ここが決壊し高屋市街が水没した
 この常夜燈には 金毘羅さんや天照大神 氏神様にかける住民の願いが籠っている
 堤防下の住居を見ると 堤防が未だ低かった時に建てられたであろうことが うかがえる
 常夜燈も低いところに建っていただろう
07-04
家後屋
家後屋
 この辺り高屋川は不思議な流れをしている 中条の落石から高屋八幡宮を通って流れ下る川は そのまま真っすぐだと高屋の町を貫流すのが自然 それがわざわざ百米ほど上手の井原の方へ向かい 南に回って高屋の町を迂回しているのである 迂回したあたりが新川と呼ばれるのは そのへんに意味がある
 猫足の華麗な常夜燈である 近くのお墓にも猫足が多い 傘寿を過ぎた猪原政男さんは「金毘羅さん云ようりゃんした 道作りで位置が変わったが 昔は常夜燈の前で神楽を舞ようた」
07-05
上出部舟観音
上出部舟観音
 参勤交代の行列を見ていたこの常夜燈は 井原市上出部の旧山陽道沿いの小川に立っています この川は旧高屋川の名残川です 数百米上流には田圃の上に低い土橋が架かっています 大水のとき田圃が川になったからです 橋の名は庚申橋
 神辺平野へ流れ込んでいた小田川は 三百数十年前 東の矢掛のほうへ向きを変えられました しかしその後も地下水脈は最近まで変わりませんでした ここ出部あたりは 湧水によって川は水運に十分な水があったようです
 近年井原市内の発展により 地下水脈がほとんど閉鎖され 高屋川源流近いこのあたりの湧水は涸れてしまいました いまこの小川と水運とを結びつけて付けて考えることはとても難しいことです
07-06
笹賀川附
笹賀川附
 郷が丸のぼり口 川附(がーつき)銅(あかがね)鯨(くじら)の地名が残る旧国道沿い かって備中大橋があったことを示す石柱が立つ
 井原向町の堰を閉じると今でも小田川の水が流れ農業用にする 伏流水の多いことは 出部・高屋の繊維産業に貢献した
 『いつ』とよばれる泉は各所にあり 伏流水が噴き出る この辺りに農業用溜め池が見当たらないのはそのせいである
07-07
上御領夏目
上御領夏目
 この辺りの高屋川は水が澄んでいて 川底の礫が美しい
 常夜燈は秋祭りのはね踊りをする広場を提供していたと聞く
 移設の様子が伺えるのは 道路を広げたせいだろう
07-08
上御領南札場
上御領南札場
 この辺の小字を「樋の詰め」と言う いかにも水利と関係深い名前だ 夏目からそんなに遠くないのに 似たような常夜燈があるものだ
 美田を多くもつ「じげの衆」は自尊心が高く あまり「くぎゃあ(冠婚葬祭の付き合い)」をしなかったので となりの夏目に常夜燈ができたら うちにもと云うことで作った 年号を入れると新旧を比較されるので 結局無記名
07-09
上御領宗重
上御領宗重
 最近だと思っていた明治廿年も もう百年からになる 旧山陽道上御領の一里塚跡は 百米ほど井原寄りの田圃の中
 昔はこの常夜燈のそばに大きな松の木があったので 疲れをいやす旅人は 一里塚を目安にここで休んだのであろう お團子やおでんをひさぐ茶店があれば似合う
07-10
下御領柳原
下御領柳原
 旧山陽道を百米ばかり南の田圃の中 そばにある深い泉は大正時代の新釣井(にいずり)
 井原から流れてくる小田川の伏流水が二、三十年前まではこんこんと湧き出ていた 潅漑用であり 子供達の水浴場であった
07-11
下御領中組
下御領中組
 旧山陽道に面する 敷地寄附は野毛大吉 発起世話方六名の中にも野毛大吉の名前あり 当主の野毛さん七十半ば「むかしゃ うちん畑の一部じゃったが 今は国有地になっとる」
 旧山陽道は最近まで国道として重要だった 「バスが石垣を多少揺すったようだが ひどいかまぼこ道でして 軽自動車が走り始めた頃はよう腹ぁこすって転(ころ)ぎょうたもんですら」
07-12
下御領馬場町
下御領馬場町
 御領国分寺の旧山陽道に古い常夜燈がある 土台に盃状の凹み穴が多いのは ここが小川のほとりであったらしい
 中組の常夜燈と瓜二つのようにみえるが これは嘉永二年(一八四九)彼は明治廿九年(一八九六) 五十年の開きがあれば 同じ石工ではない 御領の山石が似ていたと考えられる
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